一首評〈第100回〉

わが肩に触るる触れざるゆふぐれの手があり少し泣きたい今は
小島ゆかり 『ヘブライ歴』

 他者が私をかすめるとき、その存在への希求はとりわけ大きく、急速に膨れ上がる。

 提出歌の「手」、またあるいはその主は、作中主体の今・ここに現前してはいない。肩は身体の、私の末端にある脆い部分である。その肩に触れる手がある気がして、けれども、やはり触れない。二句目において、主体の思う(おそらくごく近しい)他者は一度ことばの上で立ち現れ、一転してすぐに消えてしまう。そのごく局地的で圧倒的な存在感がただ、切ないと思う。


 ――ゆうぐれという狭間の時間にあって、私がほんの束の間に感受した、あるけれども無い手。どうやってもたったいま顔を見ることができないあなたの、ここには無い手、あってほしい手、あるような気がしてしまった、手――


 本来なら大きな振れ幅を伴った感情であるはずの「泣きたい」に、ことばの上でたどり着くときには、しかしもう一番はげしいところを過ぎている。じぶんは泣きたいのだ、と自覚できること、「少し」という理性の利き方。でも泣きたいのはどうしようもなくほんとうで、そんなせめぎ合いが生じている。そうして倒置された結句の語順が、いっそう哀しいと思う。


  ――幻の手は私を包むゆうぐれへと還り、そうして私はただ佇む――


 ゆうぐれに所在無くひとりでいるとき、この歌をそっと唱えてみている。

笠木拓 (2011年4月20日(水))