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お誕生日会の三角帽子かぶった子と物乞いする子 強化ガラスを隔て
野樹かずみ ((『もうひとりのわたしがどこかとおくにいていまこの月をみているとおもう』洪水企画))
二重世界。二つの現実。
二つを隔てる境界線は、平然とそこに敷かれている。

――前日の夜、横浜駅の構内や周辺で寝泊りする野宿者にスープを配食するために寸胴鍋を抱えて歩いたその足で、昼間の休憩時間に、中華街から山下公園、赤レンガ倉庫の間を抜けてみなとみらいまでを散歩する。
みなとみらいの繁栄。資本主義の西瓜糖の夢がかたちをなしたもの。
その繁栄を根底で支えたのは寿町の日雇いの労働力である。寿町では、路肩のゴミがにおう。
休憩時間が終わり、寿町の児童公園で炊き出しをする。
いったいどこからこれだけの人が現れたのか。
さっきまで人気のなかった公園の周囲の道を、人の群れが埋め尽くす。
路上生活者の体臭が、空間に満ちる。
炊き出しのあと、風呂に入ったり、テントで寝たりし、またパトロールへ。
次の日の朝の仕込みを終えると、またわたしは中華街の方へ歩いていく。
二つの世界のあいだをわたしは行き来する。
目に触れるもの、耳で聴くもの、膚で感じるもの、鼻が感知するもの。
それらの違いに認知が揺らぎ、頭がくらくらする――


掲出歌においても、世界が二つに断絶している。
防弾用のものなのだろうか、強化ガラスを隔てた二人の子ども。
そこに流れる別々の時間。
きっと日々生きて嗅ぐにおいも別々なのだろう。


――ダンボールハウスを見つけると、かがみこんで声をかける。一人の路上生活者には、原則一人で対応する。大勢で行くと、警戒させることになるからだ。
「すみませーん、寿のものです。あたたかいスープいりませんかー」
夜間パトロールにおいて大切なのは、大声を出さないこと。熟睡する路上生活者を無理に起こさないことだ。
また起きた場合でも、拒まれたらすぐに引きさがることが肝心である。無理にスープを飲ませたりはしないこと。
スープの注文が入ると、いったん寸胴鍋のおいてあるところまで戻る。スープをよそう係によそってもらったスープを、路上生活者のもとまで運ぶ。
そして彼がスープを食べ終わるまでの時間を共有する。
たいていは沈黙と咀嚼の音だけがあり、互いに視線のやり場に困ったりもするが、時には会話が生まれることもある。
その時、少しだけこの人に近づけたと思う。
もちろんほんの僅かな距離だ。
本質的には、二者の間には途方もない距離がある。
このひとは重力によって、その距離を落ちていったひとなのだ。
わたしもいつか同じ地点まで落ちるかも知れないとは思う。
けれど今はそうでない以上、その断絶は決定的だ。
わたしのいる場所とこのひとのいる場所は同じ場所ではない。
わたしはいつでも帰る場所があるが、このひとは帰れないのだから。
憐憫ですらそれはない。
そんな感情すらわいてこない。
そこにそのひとがいて、かたわらにわたしがいるということの意味がまるでわからない。
痛ましいのではない。
わからないのだ。
わからないまま時間が終わる。
食べ終わった発砲スチロールの容器を回収し、仲間のもとへ戻る。――


掲出歌は、「この世の底に」というフィリピン、ケソン市のパヤタス地区を舞台にした50首連作の2首目である。
ルポルタージュあるいはフィールドノートのような作品であり、現地の人々の様子が克明に描写される。

^賈椶留れた手その前後左右から伸びてくる物乞う手と手と手と手
△海海忙た別のスラムでは(海のほうだ)人びとは腎臓を売っているという
ゴム草履であらゆるものを踏んでゆく子どもたちの足は傷だらけだ
ちっているゴミのトラックに軽やかに少年たち乗ったりぶらさがったり

,留覗的な完成度の高さなどから見ても、野樹の短歌作者としての技量の高さは疑うべくもないが、破調の歌ばかり並ぶことが、一読無器用な印象を残す。しかしその無器用さを取り除いてしまえば、何も残らないと思うのだ。
破調の理由は第一に、ゴミ山のある町の雑然とした印象を描くのに、適しているからであろう。
だが、それだけではなく定型そのものへの違和もそこにはあるのではないだろうか。たとえ書かれる内容がたとえ混乱やわからなさであっても、書かれることで、定型に当てはめられ、韻律を付与されることで、「混乱」や「わからなさ」として処理されてしまう。
すっきりとした定型と滑らかな韻律は、ある意味で思考停止装置と言えるだろう。
このパヤタスで野樹はフリースクールの活動をしているというが、本質的にはこの町とは他者であるだろう。
他者として隔たりを持ったまま、野樹はこの町を記録し続ける。わからなさを抱えたまま。
 
イ靴△錣察△隼劼匹發蕕聾世Α2搬欧いて神様がいてゴミ山がある
殺されて捨てられていた(よく燃えて)男かも女かもわからない

イ裡下鵑箸覆蠅豊Δある。同じページにある。
世界の特性は並置である、とフランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユは言う。そこでは、すべてが他のすべての埒外にあり、すべてが他のすべてと異質であって何の関連もない。
世界は他者とわからなさに満ちている。それをわからない、と嘆くのではなく、ただ克明に記録する。沈黙するかのように。

Ыつけられていても黙って微笑するひとたちがいる この世の底に
┣薪戮任皺れてきたからあたたかい女たちいて異郷が故郷

一体目の前にいるこのひとたちと自分の間にはどんな隔たりがあるのだろう。
どれだけの疎外と辱めを受けてきたことか。
それはけしてわかりえないものであり、断絶であり、断絶を目の前にしてひとは絶句するしかない。
それはことばの形をとった絶句であり、だからもう星を見上げることくらいしかできない。

三界の重い夜空に鍵穴を抜けた光のような星たち

参考文献
冨原眞弓(2002)『シモーヌ・ヴェイユ』岩波書店.
評:吉岡太朗 (2011/05/15)

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