一首評〈第104回〉

廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て
東直子 『春原さんのリコーダー』

廃村を告げる活字、どこかの村が一つ無くなってしまうのだろうか。作中主体はそのニュースを思いがけず、ふと目にしたのだろう。その時食べていたのは桃。剥き終えた桃の皮を新聞紙の上に置いている、という情景を想定できる。村が無くなってしまうという記事、作中主体にとってその村がどんな存在であるのかは断定出来ないが、おそらくこれは作中主体とは全くかかわりの無い、見知らぬ村の話だろうと思う。近年では、犯罪や事故で人が死ぬニュースが毎日のように新聞やテレビで報じられる。亡くなった被害者は自分とは何の関係もなく、一日どころか数分もすればそんなニュースのことは忘れてしまい、また元の生活へと立ち戻っていく。だが、そのニュースを初めて聞いたときに感じる、なんとなく自分の一部も傷つけられたような、やりきれないような、さみしいような、そんな気持ちをこの作中主体は「廃村」の活字に感じているのではないだろうか。仮に自分の知っている村が無くなる知らせを聞いた悲しみであれば、その村にもう行けなくなるだとか、消えていく数々の思い出だとか、具体的で引き算的な喪失の悲しみに作中主体が浸っていることになってしまい、深みとしてはもう一つな所があると思う。少し遠回りをしてしまったが、やはりこの歌は、自分の知らない遠い所で、ひとつの村が無くなってしまうという、やりきれなさとさみしさの入り混じった感情が、「廃村」のニュースを見た作中主体に生まれる所から始まるのだと思う。それから第三句以降、新聞紙の上に置いてある桃の皮がその活字に触れ、汁がどんどんとにじんでいく光景が描写されている。何も出来ないままどこかの村が無くなってしまうこと、そしてその廃村へのタイムリミットは現在進行形であること、ここに生じる無力感と切迫感、やりきれない寂寥感、桃の汁が廃村の文字にじわじわとにじんでいくように、このままでいたら確実に自分の心の大切な何かが失われてしまう危機感を感じて、作中主体は最後に、「来て」と呼びかけているのではないか。誰か近くにいる家族とか、どこかに住んでいる恋人に向けてとかではなくて、誰でもいい、とにかく「来て」なのだ。この感情を抱えたまま一人で居続けることのさみしさ、そこから一刻も早く私を救い出して欲しい、という意味での「来て」なのだ。ちょうど桃の汁のように、じわじわと深い悲しみが染み込んでくるような歌だと思った。

小林朗人 (2011年7月1日(金))