一首評〈第110回〉

雨の夜は亡き人おもふほのぼのと発光をする馬のかたちの
栗木京子 『夏のうしろ』

 雨降りの夜には光が滲んで見える。
 ずっと眺めていると、その光の中に見えてくる輪郭がある。
 触れようとしても叶わない、そもそも遠さを精確に測ることすらできないのに、でも、手を伸ばす。落ちてきた水滴は私の体温をかすかに奪って、ほんのしばらく閉じ込めて、地に落ちて輪廻の続きへとまた戻る。

 たとえばそういう寄る辺ない思慕が、かたちを取るとしたら。なるほど、馬かもしれない。

 「光る」とか「光を放つ」ではなく、「発光をする」などと、なんだか平板な言い方を作者はしてみせる。馬が光ることが、大げさでない種類の摂理ででもあるみたいな気がしてくる。馬が光ることが、なにか切なげでほのあたたかい。
 提出歌の光はぼんやりとして定まらず、存在しない馬の輪郭を現実の私の指がなぞることは不可能だ。

 けれども、馬はいる。すこし湿ったような毛並みを、あるいは私のてのひらが感受できてしまうくらいの確かさでもって。もういない誰かをおもうときの、神妙な熱っぽさをその身に纏った馬が、この雨の夜にいるのだ。

笠木拓 (2011年11月21日(月))