一首評〈第117回〉

水のかげとどめるビー玉死のときに握っていたいもののひとつに
江戸雪 「火」/『百合オイル』(『セレクション歌人3 江戸雪集』より)

水の光をとどめるビー玉。ビー玉の製法や仕組みに水が関連するのか、と考えて調べてみたが特に関連性は見いだせなかった。つまりこの「水の光とどめるビー玉」については、水に反射する光をビー玉が映し、ビー玉の中に光が留められているように見えるという光景が考えられる。あるいは、水は存在しないとして、ビー玉そのものが、きらきらした水のような光を内部に留めているように見える、というくらいでもいいだろう。
また、「光」に「かげ」というルビがつけられているが、古語では「かげ」は光を意味するので、これは単純に光であると考えられる。(それとも、「影」や「陰影」などである可能性も捨てない方が丁寧な読みなのだろうか。作者が初句を五音にするためにこのようなルビをつけたのだろうか。いずれにせよ、「かげ」というルビをつけることで、単なる明るいだけの光ではなく、静けさや神聖さ、落ち着いた美しさのイメージが生まれる。)
 こうした美しいイメージを漂わせるビー玉が初句、二句で提示されたわけであるが、三句目以降でそれが死の時に握っていたいもののひとつである、と言っている。
これについて考えるにはまず、「死」について考える必要がありそうだ。純粋に考えれば、「死」は生命の終わりである。ただ、「死は生の延長であり、対極ではない」であったり、「生きるということはすなわち死ぬということを運命づけられ・・・」であったり、「死というのは終わりではなく新たな世界への・・・」であったりなど、ここでは深くは触れないが、「死」という概念については人によってかなりとらえ方が異なっている。ということは作中主体にとっても、「死」に関する独自の価値観やとらえ方、考え方があるはずだ。(それを特定できるようなことは書かれていないが。)
どこからか聞きかじった受け売りなので面白い意見ではないが、「死ぬ時」とは「人生が完成する瞬間」である。つまり、「その死によって生が浮かび上がる」というようなことが言えなくもない。(言っておこう)
つまり、作中主体が一生のうちに出会い、手にしたもの、そして最後まで自分と共にあり続けたものとしての価値観がこの「水の光をとどめるビー玉」には与えられるのだ。
しかし、さらに注目すべき点は、作中主体が「死のときに握っていたいもの」は「水の光をとどめるビー玉」だけでなく、あくまでもそれはそのひとつの例として挙げられているだけである、ということである。この「ひとつに」によって、その他の「死のときに握っていたいもの」の存在が暗示される。それらがどんなものであるか、具体的なものに絞る必要は無いと思うが、「水の光とどめるビー玉」が、その一例として挙げられることで、特定されないそれらのイメージにある程度の統一感が与えられるという効果が発揮される。実際に死のときにそのビー玉を握っていたいというよりは、全体を比喩として使われているというようにも読める。
あと触れておくべき点は、二句目が八音であるということである。これは特に効果を狙ったというようには見受けられず、字余りもそれほど気にならないので、」「とどめる」を重視した結果である、と言っておけば十分であるように自分は思う。

最後に、関連性を感じる歌を同歌集から挙げる。
カラスが大きく見える
土壁のむこうには鳥葬の丘 死ぬとき何をくぐりたい?君を   (「インディア」)

小林朗人 (2012年5月7日(月))