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「キバ」「キバ」とふたり八重歯をむき出せば花降りかかる髪に背中に
穂村弘 (『シンジケート』)
 1990年刊行の穂村弘第一歌集『シンジケート』より、同歌集タイトルでもある連作の中頃におさめられた一首だ。

 この歌のポイントは客観性と永遠性であろう。もう少し詳しく言い換えると、[作中主体]とその意識に付随するカメラワーク、そして瞬間のもつループ可能性だ。

 取っ掛かりとして、作中の<ふたり>の関係性から考えてゆこう。
 この歌は連作の中にあり、そこで<ふたり>の関係は構築されてゆく。この連作において、わたしはこの<ふたり>を恋人として読んだ。多くの歌を挙げることは控え、連作の中で特徴的な歌を一首のみ挙げる。

  子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向かって手をあげなさい」

これは取り上げている歌の七首前に置かれている歌で、この連作/歌集のタイトルに選ばれている<シンジケート>という語が歌集全体の中で唯一含まれている。わたしはこの歌を、性行為の歌と読んだ。いまその読みを評として述べることは割愛するが、この歌において為されている<つくろうよ>という呼びかけには、少なくとも[作中主体]と[呼びかけられる相手]という二者が必要である。そしてこの二者を、同一連作内の<ふたり>とすることは十分に自然なことだと言えるのではないか。とするならば、子供をつくりかねない心理関係にあるこの二者、<八重歯をむき出>している<ふたり>は恋人どうしと読むことは可能だろう。

 では、その<ふたり>を認識している[作中主体]の意識はどこに存在するのか。<ふたり>のうちの一方なのか、それとも第三者/神の視点なのか、あるいはまた別のどこかなのか。

 ここで、文頭で触れたポイントである「客観性」「永遠性」が出てくる。わたしはこの歌を、[作中主体]は<ふたり>の一方として登場し、その意識が第三者性/客観性を帯びていくものだと読んだ。そしてそれを導き出す機能として、歌の構造や韻律がはたらいている。そのことを以下では話したい。

 この歌はひとつの発見を基盤としてもっている。それは、<八重歯>をむき出せば、口角が上がること。ヒトが<キバ>をむき出せば、笑顔と呼ばれる顔つきになること。これは、ヒトのもつ身体的な仕組みによるものである。実際に楽しんでいるかどうかとは関係なく、顔だけ見ればそう見えるという話である。この発見自体は、さほど真新しいものではない。
 笑顔に見える動物の写真などが人気だが、それはわたしたちが「笑顔は人間固有のものだ」という意識には無自覚なままそこに「人間らしさ」を見出すからだろう。しかし、動物たちにとって<キバ>をむき出すことが笑顔とは限らない。怒りの顕われ、威嚇かもしれない。初句での<「キバ」「キバ」>というシンプルな応答は「ヒト」のもつ動物としての身体的な仕組みを表し得るが、それを受ける形で言い換えられる<八重歯>は人間として笑う<ふたり>から離れてはゆけない。たとえ<むき出>すという生々しい語を使っても、それが人間のことばでもって<八重歯>と呼ばれるのだから。この「離れてゆけない」という事実が、翻り、客観性へとつながってゆく。これはどういうことか。

 この歌において、<ふたり>は向かい合い <「キバ」「キバ」と> 見せ合っているのだろう。<髪に背中に>花が降りかかるには、ふたりは背を曲げ顔を前に突き出すような姿勢である必要がある。また、お互いにむき出していると把握するためには、主体は自身がむき出しかつ相手がむき出していることを直視できる立場になくてはならない。 そしてこの姿勢と初句の応答から、見せ合っていると読むのは不自然なことではないだろう。 このとき、主体の意識は眼前の恋人に向いている。そうしてじゃれ合うことは、きっと楽しい。「キバ」をむき出すことは笑顔になることとイコールではないが、それを恋人とふたりでするならば、それは本当の<笑顔>になるだろう。その限定性への祝福として花は降りかかる。<髪に背中に>というk, m, n子音とa, i母音の組み合わせから成りさらに並列のリフレインを内包する結句は、初句のシンプルなk, i, (b,) aの応答/リフレインと対応し、花降りかかる一瞬をとどめる。その一瞬が、始まりも終わりもない永遠性を獲得する。人間が永遠にヒトであるように。
 人間が永遠にヒトであるという事実を、当事者の人間である主体は恋人と<キバ>を見せ合い/笑いあった瞬間に意識した。このとき、主体の意識は目の前の恋人を離れ、[そうして笑いあう人間の自分たちふたり]へと向かったことになる。客観性を得て、カメラは目の前の恋人から引いてゆき、ふたりを、花降りかかる景を、その景として閉じられた「人間の動物性」という永遠を捉えてゆく。

 しかしいくら客観視できた気になったとしても、主体も恋人もその景から脱することはできない。人間はいつまでもヒトであり、恋愛感情は性欲の一形態だと言うひとがいるように、動物として生きていくしかないのだ。そしてもう一度、主体のカメラは、眼前の恋人をも同時に映し出す。
 一瞬ゆえの永遠性を獲得した中で、諦観とともに、かなしいながらも祝福されながら、彼/彼女らは笑いあう。
評:北虎叡人 (2015/06/18)

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