一首評〈第149回〉

忘却はやさしきほどに酷なれば書架に『マルテの手記』が足らざり
吉田隼人 『忘却のための試論』表題連作

“追憶が多くなれば、次にはそれを忘却することができねばならぬだろう。そして、再び思い出が帰るのを待つにも大きな忍耐がいるのだ。思い出だけなら、なんの足しにもなりはせぬ。(リルケ『マルテの手記』大山定一訳)”

これは連作「忘却のための試論」の序言として引用されている『マルテの手記』の一節である。連作の主題は、作中主体「われ」の死別した恋人「きみ」に対する追憶と薄れゆく記憶への哀惜である。全四九首、掲出歌はその四八首目にあたる。

なお、連作の一首目は次のような歌である。拙評を読み進めるにあたって、頭の片隅にも留め置かれたい。

古書ひとつ諦めたれば蒼穹をあぢさゐのあをあふるるばかり

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連作を通じて語られる忘却の残酷さ。それを四八首目にして初めて直接の題に取っている。ここで忘却の残酷さは「やさしきほどに」という形容をこうむる。「やさしきほどに酷」、一見矛盾したこの形容の意味するところとはなんであろうか。

このようなパラドキシカルな修辞は様々な解釈の可能性を孕むが、「ほどに」という接続表現を重く見れば「忘却はあまりにも酷であり、それはもはや『やさしさ』をすら帯びる」と解するのが素直な読みであろう。

もはやその残像を胸裡に愛撫することでしか故人と関わることができない「われ」が体験する忘却。それを受け容れよと迫られる苦痛は推して余りある。

そして不可逆不可避に霧散する残像を前に「われ」が想起するのは、本棚に並ばぬ『マルテの手記』である。リルケの曰くに依れば、追憶を一杯に抱えたままでは「なんの足しにもならない」。過去ではなく現在を生きる人間にとっての忘却の必然が名指されている。「われ」を苦しめ続けた忘却は、ここで初めて赦しとなる。まなうらに死別を反復するばかりであった「われ」にとって、なんという甘美な誘いかけであろうか。他ならぬ苦痛こそが「われ」をしてリルケに縋らしめたのである。これはまさしく「やさしきほどに酷」なる忘却の有り様ではなかろうか。

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ここまで上の句の意味内容について解釈を試みた。下の句はどう読むことができるだろうか。本棚に虚像として突如現れた『マルテの手記』の背表紙、この不気味なモチーフはいかにして呼び出されたのだろうか。

実はこの下の句にこそ当該連作の主題が巧妙な仕掛けとともに表れているのである。手放したはずの記憶の断片が不意を衝く、前触れもなく過去に引き戻される。これもまた忘却の残酷さと言えよう。

一首目において「われ」はある「古書」の入手を諦める。その事実は「われ」の意識から一度姿を消す。忘却。そして、奇しくも忘却に想いを馳せるそのタイミングで「古書」は再び脳裡に蘇るのである。それこそが書架に足らざる『マルテの手記』なのである。掲出歌三句目末の接続助詞「ば」は、「“忘却がやさしいまでに酷である”→“書架に『マルテの手記』が足りない(ことに気付く)”」という因果関係を示している。

作者は読者にこの再認の過程を追体験させるべく、連作の先頭において「ひとつの古書」を垣間見せ、末尾において「書架に足らざる『マルテの手記』」を出現させている。その果敢かつ精緻な企てには感嘆するばかりである。

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私も何かを忘却しながらこの瞬間を生きている。この拙評の内容も、そして評を行った事実さえも、きっとそう遠くないうちに忘れてしまうだろう。もっと大切な記憶たちも、抗いようもなく薄れていくことだろう。

恋人の残影を前にする「われ」が唐突にもリルケを幻視したように、私自身もいつの日か不意の時空に吉田隼人を見出すことがあるのだろうか。

小林通天閣 (2017年5月1日(月))