一首評〈第37回〉

いちぎやうですらりと歌をつくり棄て長い散歩に出やうとおもふ
*「出やう」は原文ママ
紀野恵 『架空荘園』 砂子屋書房:1995

まず、「一行」を旧仮名遣いで平仮名化した「いちぎやう」が、魅力的である。意味をとるにも、音をとるにももたつくようなこの表記が、続く「すらり」という言葉を引き立てている。

同じく、表記に関しては「つくり捨て」ではなく「つくり棄て」と書かれている点にも注目したい。捨てたものは拾うことができそうだが、棄てたものは二度と元には戻せそうにはない。この「棄」という字が、「歌」と距離を置くことに対するきっぱりとした態度を感じさせ、一首のアクセントとなっている。

そしてなによりも、「長い散歩」という言葉がよい。ちょっとした旅よりも長く、より遠くに行ってしまいそうな予感にみちた言葉である。もちろん、例えば「人生」や「生きかた」といったものを示すメタファーとも解釈できる。

「歌をうたう歌」で「一行」という言葉を含むものに、佐佐木幸綱の「直立せよ一行の詩 陽炎に揺れつつまさに大地さわげる」がある。「歌」というものに正面から立ち向かってゆく力強い一首だが、紀野が「歌をうたう」ときには、自身と「歌」との心地よい距離を希求しているように思える。二首引いておく。

  あはれ詩は志ならずまいて死でもなくたださつくりと真昼の柘榴
  ── 『フムフムランドの四季』 (砂子屋書房:1987)

  庭さきの光の味のいちご食み日がな歌はであり経てしがな
  ── 『La Vacanza』 (砂子屋書房:1999)

好きであるがゆえに歌に疲れることが、誰にでもあると思う。
私の場合、そんなときに口をつくのはいつも掲出歌であり、口にすることで少なからず気分がはれるのを、確かに感じるのである。

光森裕樹 (2005年10月20日(木))