一首評〈第65回〉

手の甲で君のほっぺに触れてみた 君のまぶたが「ふしぎ」と言った
宇都宮敦 「くちびるとかスリーセブンとか まばたきとかピアスとか」

ピーリング・ケアはもはや美容の常識となったが、うぶ毛の一本も残らないくらい完全に脱毛をすると、肌の乾燥をまねき、触覚そのものも鈍感になる。恐怖に鳥肌がたつのは、うぶ毛を逆立てることにより皮膚感覚を鋭敏にして、危機に対処するためだ。

「きれいになるということをちょっとまちがうと、感覚がたいへんに貧しくなってしまう。」と哲学者の鷲田清一は述べている。「他人ともっと深く交わりたいがために身をきれいにしたはずなのに、逆に感覚が貧しくなるとは……。皮肉なことだ。」(『てつがくを着て、まちを歩こう ファッション考現学』)

  自転車をひきずる森でかなたより今うでの毛のそよぐ爆発 我妻俊樹
  カローラの窓から右手差し出して西日にうぶ毛きらきらひかる 佐原みつる
  Yシャツの袖のボタンが次々に割れてしまって腕まくりの日々 望月浩之

第4回歌葉新人賞候補作より。うぶ毛は、作者の皮膚と外界の間にあるクッションであり、繊細な感受性をもつ我妻や佐原の腕がうぶ毛を必要とするのは、よくわかる。


さて、これらの歌とまったく異なるベクトルの身体感覚が詠われているのが、以下に挙げる、同新人賞次席の連作「ハロー・グッバイ・ハロー・ハロー」の中の一首。

  ほかにすることがないから手をつなぐ つくづくリアルに湿るてのひら 宇都宮敦

ここに描かれている「リアル」とは、いったいなんのことだろう? もし「リアリティ」というものが、「つくづくリアルに」などと発話することで表現できるのだと主人公が考えているとしたら、「ほかにすることがない」という場面と相まって、ただ感受性の「貧しさ」を浮き彫りにするだけではないのか。
宇都宮作品を読むとき、僕がとまどいを禁じえないのは、相聞歌に期待するような、感情の襞や肌理のこまやかさがなく、まるであらゆる飲みものを、ペットボトルを容れものにして飲まされているかのような手ざわりしか感じられないからだ。

でも、これが宇都宮の選択なのかもしれない、とも思う。

上述の、『触りごこち』という小題のエッセイでは鷲田はピーリングに対して悲観的だが、逆の解釈も成り立つ。つまり、現代の若者がうぶ毛を除去するのは、感覚を貧しくしなければ、「他人(=世界)ともっと深く交わる」ことができないと感じているからなのかもしれない。あるいは皮膚感覚を削ぎ落とすことで、別の感覚が鋭敏になるのを期待しているのかもしれない。

だからこそ宇都宮敦は、もっとも感覚のにぶい手の甲で恋人に触れる。

その行為から得られるものが、なにか。僕にはわからない。恋人自身も、わかっていない。しかし、鷲田のエッセィにはつづきがある。
まず、若者のファッションの関心が、視覚中心のものから生地の感触など全身的なものに移行しつつあることを指摘し、そして、テクノロジーにより生まれた、どんな天然の繊維よりもこまやかな、新合繊のテクスチュア。その可能性におおきな期待を寄せて、文章は結ばれている。
「だれも触れたことのないテクスチュア、それがどんなリアリティの感触を、時間の感触を生み出していくのか?」


掲出した望月の歌をご覧いただきたい。この「腕まくり」された腕には、あきらかにうぶ毛が生えているように僕は思うのだが……。

はたして宇都宮敦の腕に、うぶ毛はあるのだろうか?

下里友浩 (2007年6月1日(金))