一首評〈第82回〉

あわれいま束を解かるる花茎のつゆけき交叉抱きあげむとす
岡井隆 『朝狩』

 第三歌集『朝狩』の「汚名・花から鳥へ」一連より。
「花束が、解きほどかれるところを見てゐる。菊でもよい。薔薇でもよい。解かれた束は、ばらばらになり、茎と茎とが、交叉するかたちをとる。水を一ぱいかけられてゐるから『つゆけき交叉』なのだが、ばらばらにならうとする束を、ひしと抱いて、解体をふせがうとしてゐる。このやうな構図として画かれた花束は、それ自体、おのづから、なにかの喩になつてゐるが、そこまでふか読みしないで、花束の歌として読んで欲しい。」(岡井隆『前衛短歌運動の渦中で』)
 おだやかな解釈は、岡井がいっているようにそのまま花束の歌と読むこともできるだろう。しかし、ここでは岡井の意に反して深読みをしてみたい。
 まず「汚名・花から鳥へ」という意味深なタイトルである。「汚名」とは、「いかに解釈されてもかまわぬのであるが作者は、六年前に、かならずしも明るいとは言えぬつきつめた恋愛を契機として、さきの妻とわかれ、生活を一変せしめており、その時以後、近親友人の誰彼から有形無形の非難を浴びてきた。」と、岡井が『朝狩』の自註で書いているように社会から逸脱したという自身の状況、岡井のスティグマのようなものであり、その思いを花や鳥に仮託した一連であると考えていいだろう。
 そこで「束を解かるる花茎」であるが、自身の状況を暗喩的にこういってみた。つまり婚姻制度、もっとつきつめていえば社会制度という束から、今ようやく解かれた。そして新たな女性と再び交叉し、結ばれたわけである。「抱きあげむとす」という結句は、その女性をたんに抱くのではなく、そこから持ち上げるわけであるから、岡井の強い意志が窺われる。だがその行為は、初句の「あわれ」に暗示されているように、ただ甘美なだけの恋愛ではなく、ある種のあわれさを伴ったものなのである。
 私はこのように解釈したのだが、やはり深読みだろうか。

川島信敬 (2009年12月1日(火))