一首評〈第89回〉

直線を引き続けると前触れなく途中の道で日暮れに遭う
矢頭由衣 連作「ヴォイド」

梅雨に入りました。何日か前の新聞に書いてありましたが、からだにもカビが生えることがあるとか。なんとも恐ろしいですね。
 先日、京都の京大会館で『京大短歌』16号の批評会をささやかに行いました。OBの吉川宏志さん、棚木恒寿さん、西之原一貴さんにお越し頂き、お蔭様でとてもよい会となりました。その16号から一首。

 非常に私的な読みになってしまうのですが、この短歌には作中主体といいますか、作品の中の「わたし」がいないような気がします。
 白紙の上に鉛筆で線を引く光景でしょうか。別の筆記具かも知れませんが。作者は京都工芸繊維大学の大学院生で、連作のひとつ前の歌にはダダイスム、シュルレアリスムの芸術家であるマン・レイの名が出てきます。そこはかとなくアーティスティックな雰囲気が漂っています(書いていて、なんと頭の悪いセンテンスだろうと思いますが)。
 根拠はあまりはっきりとしませんが、こんな風に読めます。一本の腕と、その腕が握る鉛筆と、鉛筆がその上を滑っていく広大な紙が、映像としてカメラに映されている。もちろん引く人間(作中の「わたし」?)はちゃんと存在しているのですが、映像の中ではそのひとの人格は取沙汰されない。あくまでも純粋な直線運動を読者は目で追っていく。
短歌は「わたし」を描くものだという考え方が短歌の世界にはあると思いますが、この歌はたぶん、「わたし」ではなく「運動」を描いているのだと思います。
運動がある地点まできた時、唐突に日暮れのヴィジョンが出現する。天を焼く光のイメージでよいのでしょうか。あるいは映像に闇の帳がおりるイメージでしょうか。結句が字足らずなのですが、それが遭遇の唐突さを表現しています。
 面白いのは、「日暮れに遭う」のが――作中の「わたし」が不在であるため――、ダイレクトに読者自身だということです。読者は言葉というカメラを通して、線を引き続ける運動を眺めている。そして唐突なヴィジョンの襲来に、運動を見失う。

吉岡太朗 (2010年6月15日(火))