一首評〈第90回〉

はばたきのシステムという美があってそれに指先だけ触れている
服部真里子 『町』3号

鳥、例えば文鳥などの翼にそっと触れている場面を想起させる。
この歌の主眼は、「はばたき」、「システム」、「美」という語の選択に内在している。これらの語はどこか高尚であり、アカデミックな雰囲気を漂わせている。私は、この世俗と切り離された翼のとらえ方に、「美」、さらにそれを越えて「神」を感じるのである。鳥、若しくは鳥の飛翔自体は「神」を強く感じさせるものではないが、鳥という生物の構造、鳥の飛翔するためのシステムへと焦点を移した時、「神」の存在感が如実に現れてくるのである。

上句ではほぼ完全に定型であるのに対し、下句は“それに指先/だけ触れている”と句割れになっている。これは上の句が「はばたきのシステム」=神、下の句が「指先」=人、であることと呼応している。そう、人は完全ではない。どこか“ねじれ”が存在するのだ。例えば神と完全定型が非常にかみ合っている例として、次の歌がある。

 わたくしはどちらも好きよミカエルの右の翼と左の翼(紀野恵『フムフムランドの四季』)

この歌の場合、“ミカエルの”で一首の中心の三句目を押さえ、四、五句目に綺麗なシンメトリーを配することが、一首の美しさに磨きをかけている。

以上をふまえると、

≪システム・美≫ ← ((人が“指先だけ”触れる))
神、人を越えたもの        人

という構造をもった歌とみなせる。つまり、神が創り出したような深遠にして美しいシステムがあって、それに恐る恐る触れてみる人間の姿が映し出されている。
作中主体は“美”、若しくは“神”に触れることによって、その一部がみずからに流れ込むことを願っているのかもしれない。但し、あくまで敬虔に、指先だけを触れさせて。

私はこの作者、服部真里子の作品の大きな魅力のひとつとして、この“神への、若しくは神からの視点”を挙げたい。そのような歌には、独特の透明度、人臭くない感じがある。その生活、現実からの浮遊感は今の若手の歌によく指摘されることではあるが、服部の歌はとりわけその純度が高い。この神の混入率の高さ、純度の高さに、私は惹かれ、そしてまた可能性を感じているのかもしれない。

 息つめてサドルの取れた自転車に成層圏の気配を探す    (服部真里子『町』2号)
 調律を終えたピアノはハンマーの戻りが速い 冬の雨来る           (同)
 ゆうぐれのオオミズアオを思いいるあなたに神の瞼が触れる (同、『短歌研究』2010,9)

上記の歌において人の気配は薄く、それ以上に世界というシステムが主題となっている。人はそのシステムにうすく接触するにとどまり、ただただ世界のシステムに圧倒される。おそらくこのような歌になる一要因として、冒頭にものべた“語の選択”ということがあると思う。成層圏、調律、神の瞼等の呼び起こすイメージには、生活感というか、人の気配がない。

 森の中に森があるのだ 会おうこのファミマが風化するより前に   (同、『町』3号)
 青春に塩をこぼして私たちその静かなる物音を聞く              (同)
 フォークランド諸島の長い夕焼けがはるかに投げてよこす伊予柑        (同)

たとえばこの三首は、ファミマ、塩、伊予柑という語に生活感、人の気配が付随しているが故に、神の純度、システムの存在感としては中途半端と言わざるを得ない。
もうひとつ、神の純度の高さをサポートするものに、これも重複になるが定型性がある。たとえば次の歌などは、内容の純度は高く魅力的であるにもかかわらず、韻律で損をしている印象がある。

 悲しみの単位として指さす川にはなみずき散りやんでまた散る         (同)

但し、そのような神の(への)視点でなくて、しかし良い歌も多いので、あくまで一側面ではある。下のような歌は、人への、人からの視点、つまり伝統的な抒情作品として読める。

 今宵発つ駅舎と青い宝石を君の手帳の中に見ている         (同、『町』2号)
 駅ごとに細い付箋を立てながら父は出かけてゆくのか春へ           (同)

藪内亮輔 (2010年9月21日(火))