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かすかなるますといへども落雷に生きのこりからだ曲りておよぐ
奥日光
佐藤佐太郎 (『群丘』)
 自然を詠うとき、もっとも大きな武器となるのは“技術”であると思う。第7歌集『群丘』よりとってきたこの歌についても、卓越した技術の一端を見ることができる。
 落雷に打たれた魚も、死なないことがあるのだろうか。この景自体、面白いのであるが、私がまず注目するのは「鱒」という名詞である。これが「鮭」のように大型の魚であれば、もしくは「魚」のような抽象語であれば、少なくともこの歌は駄目になる。これはちいさな川魚としての「鱒」が効いているのである。小さな魚の内包する、しかし想像外に大きい生命力に心が動かされるのである。この鱒の“ちいささ”は、最後の3文字平仮名の動作「およぐ」へとひびき合ってゆく。
 それに関連して、下句の丁寧な動作描写も魅力である。これを見て思い出すのは「雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁」(斉藤斎藤)。この歌においては、“県道に落ちているのり弁”を認識するまでの(私)の認識の変化が丁寧に、数段に分けて描写されている。ただ、これは(私の認識)特化型の歌であり、イメージ自体はあまり詩的に美しいわけではない。一方、佐太郎の歌にも「雷に打たれる」→「生きのこる」→「体が曲がる」→「およぐ」という段階的動作が描写されていて、これが(鱒)のリアリティ、微かだが確かにそこにある生命性を強く訴えてくる。まさにハイレベルな追体験装置に乗せられたような、スピード感、緊迫感をもって。この鱒の生命感に、私は感動する。
評:藪内亮輔 (2011/03/03)

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