一首評〈第99回〉

われの生まれる前のひかりが雪に差す七つの冬が君にはありき
大森静佳 「草花展」

  さ よ  う   な     ら

短歌を読んでいる時。
その文字列が発するメッセージを読み取ろうと、目を凝らしている時。
その時にだけ見えるひかりがある。
あのひかりは何だったのだろう。
歌をまだ読めていない時に感じたあの雪の照り返しの美しさ。
今この時に見る「ひかり」も確かに美しいが、あの時のひかりと比べればすでに精彩を欠いている。
君はわたしの知らない冬を七つも知っている。その冬にもまた雪は降り、ひかりによって照り輝いていたのだろう。わたしにはそれが見える。わたしには君が遠い。君はわたしのそばにいるのに、七つの冬を隔てた場所にいて、わたしは永遠に君まで辿り着けない。でも、その隔たりが、その暗がりがなぜか不思議にひかっている。ああそうか、それは雪に差すひかりなんだ。
ああ、これはどうしようもなく解釈なのだ。
あるいは美しい解釈なのかも知れない。
けれど、解釈の意味性に着地してしまった今、その解釈をベースとしてしか、イメージを感受することができなくなっている。
ひかりはもはや意味に飼い馴らされてしまった。
良い歌ではあると思う。
けれどもう良い歌でしかないものにされてしまっている。
「寒いからもうお入り」と母さんの声。
ぼくはいつの間にか、窓ガラス一枚隔てた場所に移動してしまっている。
窓から外を見る。
ここからもその場所は見える。
やっぱりそこは美しい場所だ。
でも同じひかりは差していない。
あの時とは違う。
あの時に戻りたくて、もう一回外に出ようと思って、ぼくは玄関の方にいくのだけど、もう玄関は消滅してしまっていた。
ああそうか、玄関なんてはじめからなかったんだ。
あの場所はもう存在しないし、あれは窓ガラスじゃなかったんだ。
壁に埋め込まれたガラスケース。
ガラスはぼくの解釈を原料にしている。
ぼくは、ほんとうはあのひかりの美しさに耐えられなくて、だからああやってケースの中に閉じ込めたんだ。
閉じこめられたものは、同じものではない。
だからもうお別れなんだ。

吉岡太朗 (2011年3月31日(木))