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研究会の記録
松村正直 第一歌集『駅へ』研究会報告
下里友浩
わかりやすい短歌、という問題についてさいきんよく考えます。
先日、京大短歌会で行われた「渡辺のわたし」研究会でもすこし議論された問題で、
乱暴にまとめると、
「散文で表現できる内容を短歌形式にのせることに、意味があるのか、
 あるとしたらどのような意味があるのか」
といったところでしょうか。
研究会後、松村正直氏の「駅へ」、とくに「結婚式」の一連を読んで、
改めてこの問題について考えました。
(くわしくは、未読の方のために書かないでおこうと想います)
京大短歌会のメンバはこの歌集をどう評価するのか、
また、松村さんご本人の短歌観について知りたくなり、
今回、下里プロデュースにて「駅へ」研究会を行うことにしました。
研究会が開かれたのは2004年の12月11日土曜日、午後6時半から京大会館にて。
司会は下里。
レポータは光森さんと、お忙しいなか無理をいって西之原さんにもお願いしました。
研究会のなかで特筆すべきは、やはり光森さんのレポートだと想います。
詳しくはレジュメ読んでいただくとして、
従来おおく見られる、数首をピックアップして演繹するのではなく、
歌集中のすべての歌を俯瞰しながら、全体の傾向を抽出しようとする方法論は、
歌集批評に投じられるべき一石ではないでしょうか。
光森さんのレポートを受けて、
西之原さんから、以前「駅へ」の批評会で挙げられた論点について報告がありました。
光森さんのレポートと重複しない点だけを挙げれば、
わかりやすい文体やリフレインの多さからもたらされる律、
あざやかな見立てや機知による愛唱性、
歌集のストーリィ性と、それにともなうわかりやすさ、への問題提起などです。
そのほか、僕がおもしろいと想った指摘を挙げます。
まず、「この歌集は、モラトリアムのフリータが恋愛を通して『充足』する、
という物語に回収されるおそれがあるが、
デッサンのように何度も君の手に撫でられて僕の輪郭になる松村正直
このうたが示唆するように、作者は『充足』した自己像をゴールとはしていず、
それが歌集に深みを与えている」というもの。これは西之原さんの指摘です。
また、「巻末の解説などでは、作者がフリータの生活を選んだ理由が、
『結婚式』の一連で説明されている、と捉えているが、必ずしもそうは言い切れない」
というもの。これは光森さん。
これについては、吉村さんがその後の懇親会で、
「なぜ松村さんは漂泊の境涯を選んだのか」という質問をしてくれました。
ありがとう! 僕はそれが知りたかったのです。
問題の「わかりやすさ」についての議論は、僕の司会がつたなかったこともあり、
なかなかじっくりとはできませんでした。
ですが、
(「駅へ」は出版から三年を経て、すでに一定の評価を得ている歌集なのにもかかわらず)
新たな読みがたくさん出て、個人的には得たもののおおい研究会でした。
研究会そのもの以外にも、この機会に松村さんの参加されている短歌評論同人誌、
「D・arts」を読むことができました。
とくに第六号の、松村さんの評論「東北日記を読む」は、
「わかりやすい短歌」という問題に、興味深い観点を提出しています。

今回、日程の変更が何度か重なり、松村さんや京大短歌会のみなさんに迷惑をかけました。
すさまじいレジュメを用意してくださった光森さん、
忙しいなかお越しくださったみなさん、
激励の言葉をくださった方々に、多謝を。
数年前の歌集であっても、何度か批評をされている歌集であっても、
よい歌集には汲んでもつきない読みどころがあること、
そのような歌集を、研究会などなんらかのかたちで読みつないでいく意義、
というのを改めてつよく感じました。
研究会リストへ
(光森裕樹のレジュメを以下に掲載します。)
松村正直『駅へ』研究会レジュメ
2004年12月11日 光森裕樹
(当日配布したレジュメより引用歌を減らし、適宜内容を補いました。
なお、補助資料などは省略いたします)

周囲の人・土地の不特定性と忘却
1. 周囲の人の不特定性
周囲の人々は集合名詞的に扱われ、個々の顔は見えない。使われる名詞には、「自らもその一員」または「相手から見れば自身もそう」であるものが多い。
フリーター仲間と語る「何歳になったら」という言葉の虚ろ(P.22)
エキストラばかりが歩く雑踏の空へ逃げ出せ青い風船(P.30)
辞めていったたくさんの人を思い出す私自身が辞めていく日に(P.78)
「函館に住んでいたことがある。[…] 知り合いは誰もいなかったし、手紙や電話も来ることがなかった。アルバイトが終っても真っ直ぐにアパートへ帰るのが寂しくて、いつも喫茶店へ寄っては時間を潰していた。」
『短歌』2000年10月号 掲載(web:「松村正直の短歌」より)
* 後半からは、父・君がなどが大きく扱われる。
2. 土地の不特定性
どの土地でも同じような生活を繰り返す。いつまでも続きそうな生活。
「『駅へ』はさまざまな町を舞台に歌われているが、風土性はほとんど感じられず、どの町もおなじような表情をしている。」
『駅へ』解説 吉川宏志
3. 忘却
土手道のすすきよすすきどこまでも僕の忘れた人の数だけ(P.9)
忘却の乾いた風にからからとペットボトルの風車が回る(P.10)
大切なことから忘れていくようだ ほら、またここにも冬の木が立つ(P.89)
・まとめ
忘却をくり返しながら、似たような表情の街を転々とする。永遠にループを繰り返すかのような、漠然とした日常。「だろう」「だろうか」という表現が散見されることにも注目。
時計の歌の多さ
腕に巻く時計の輪から抜け出して観覧車過去も未来も見える(P.55)
絶え間ない時の流れが文字盤の鋏にふっと切り落とされる(P.89)
君がまた壁の時計を見るように僕を見るから日は暮れていく(P.124)
・まとめ
大局的には変化に乏しく、繰り返される日常。その一方で、今この瞬間、確実に時が流れている・流れてしまっていることへの意識。ぐるぐると回り続けてきた回廊は、実は、限りなく緩やかな螺旋階段であった。少しずつ、しかし確実に変化している何かがある。
多用される「ない」とその変化
歌集には、ユーモアのある歌・さわやかな歌が織り交ぜられており、フリーターとしての生活を決して重苦しいものだとは思わせない。しかし、410首中85首に「ない」あるいはそれに準ずる語(ず・無など)が使用されている。(使用率は20.7%にもなる。「不〜」などを含めば更に増える。また、一首ないで複数回「ない」を使用しているものが目立つ)
「ない」の使用は歌集の後半にいくにつれて減る傾向があり、その使用方法にも変化が見られる。

1. 社会の補集合として定義される自己 (初期)
社会において「Aする人」ではなく、漠然と「Aしない人」として定義される自己への意識。
「駄目なのよ経済力のない人と言われて財布を見ているようじゃ」(P.13)
ネクタイをしている首としていない首 二種類の首があります(P.14)
定職のない人に部屋はかせないと言われて鮮やかすぎる新緑(P.19)
2. 欠損を持つものへの自己投影 (初期〜中期)
何か足りない物に囲まれている。自己投影と解釈することができ、自己のあるべきすがたと実際との違いへの視線。
しり取りをしながらふたり七色に何か足りない虹を見ていた(P.13)
自信無さそうに掛かっている服の肩のあたりを持ち上げてみる(P.62)
海へ行くバスが一つも出ていないバスターミナルの夕暮れに立つ(P.105)
3. 明確な人物と向き合い・自己を探る (後期)
A. 「父」との関係性
父と子であればなおさら上手には言えないことのありていくつも(P.147)
いい息子ではなかったと思う時さえざえとして月の光は(P.148)
かすがいになれなかった子もいつの日か父となる日を夢に見ている(P.149)
B. 「君」との関係性
楽しげに電話と話す君といて食後のパフェはなかなか来ない(P.95)
注文と違うドリンクおとなしく飲むことなんてあなたはしない(P.156)
「私から嫌いになることはないから」と自信に満ちて君は言うなり(P.158)
・まとめ
漠然とした社会に対峙し(=周囲の人々は集合名詞)、漠然と定義されてきた自己が、大切な人物との一対一の関係性において定義されるように変化している。
個人的な十首選
土手道のすすきよすすきどこまでも僕の忘れた人の数だけ(P.9)○
しり取りをしながらふたり七色に何か足りない虹を見ていた(P.13)○
悪くない 置き忘れたらそれきりのビニール傘とぼくの関係(P.55)
雨傘の下から見える町だけを僕は歩いてきたのだろうか(P.62)
缶蹴りの缶はあれきり僕たちの記憶の中を転がったまま(P.67)
君がもうそこにはいないことだけを確かに告げて絵葉書が着く(P.74)
辞めていったたくさんの人を思い出す私自身が辞めていく日に(P.78)
それ以上言わない人とそれ以上聞かない僕に静かに雪は(P.84)○
春ならばきれいな花も咲くでしょう恋ならばそれっきりのことかも(P.103)
窓からは時計が二つ見えますと携帯電話に客が答える(P.129)
『駅へ』からよく取り上げられる歌は、少し意識してはずした。また、三首選として、ページ番号の後に○印をつけた。
一首単位で取り出された場合に場面や状況を特定できない歌が多いが、読者が自己の経験を代入しやすく、歌に親しみを覚えやすいためだろう。
松村正直の『駅へ』以降
・文体 … 文語導入
・新しいテーマ … 子供の歌の登場・戦争詠
・その他 … 短歌評論同人誌『D・arts』の発行
第一歌集を一つの区切りとした、新たなテーマと文体の模索を感じることができる。

1. ユーモア・発見のある歌  … アイロニーの要素が入るものも。
名前のみ読み上げられる祝電のしゅうぎいんぎいんさんぎいんぎいん(『塔』03年2月号)
力まかせに布団をたたく音がする、いや布団ではないかもしれぬ(『塔』04年10月号)
2. 働く歌  … 具体的な作業・現場での歌が増える。
なまぬるい風のある夜 残業はしたがるものと思われていて(『塔』2001年9月号)
灰皿を囲むあまたの手がのびて疲労のような灰を落とせり(『塔』2001年9月号)
3. 子を歌う  … 日常に取材する姿勢は変わらない。生活の歌。
母と子のふたりの昼をわれは知らず帰りきて子を湯船に入れる(『塔』02年12月号)
春風はやすらかにしてまんぷくのわが子の腹にへそ一つある(『塔』04年6月号)
4. 戦争を歌う  … 戦争の新・旧を問わない。新しいテーマ。
動かない柱時計のある部屋に玉砕までの二か月を読む(『塔』02年9月号)
戦争で覚えしのみの町なれば永久に弾丸の飛び交うナジャフ(『塔』04年3月号)
おまけ
『塔』2004年2月号の松村正直の編集後記によると、千葉聡の『そこにある光と傷と忘れもの』(風媒社:2003)に以下のような歌がある。
放課後に松村正直『駅へ』など読みだし職員室に一人きり千葉聡 「退部届」
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