一首評〈第109回〉

青年と父が言うとき恋人は若木のように我が胸に立つ
高松紗都子 「NHK短歌」8月号

父にとっては「青年」、作中主体にとっては「恋人」。人は様々な側面を持っているものだから、人によっては印象が違うのはよくあることだ。しかし、この歌はその印象のズレを美しい形に昇華させた。
 青年という言葉はどことなく年齢を示唆する言葉である。たぶん、作中主体は恋人が青年であることをあまり意識していなかったのだろう。親しい人と居ると自分たちの年齢を意識しなくなることもまたある。ただ、この恋人が青年であるという事実、この発見によって作中主体はまた新たな側面を持った人間として恋人を意識し始める。
 新たな側面とは何なのか。私が思うに、老いる存在としての側面なのではないか。青年という言葉自体は主に若い男性に対して使われる言葉だが、永遠の若さなんて現実的には不可能だ。それゆえ、青年は老いる存在としての可能性を内在している。
 だからこそ「若木のよう」なのだ。木はやがて育っていき、枯れるのかもしれない。作中主体は無意識かもしれないが恋人がそういった可能性を内在していることに気付いたのかもしれない。

廣野翔一 (2011年10月23日(日))