一首評〈第127回〉

問十二、夜空の青を微分せよ。街の明りは無視してもよい
川北天華 歌会の記録(2011年4月15日分)

この歌を見た時のことは少しだけ覚えている。歌稿に手書きで書かれていた。京大短歌のホームページの「歌会の記録」によると2011年4月15日のことだったらしい。
綺麗な歌だとは思ったが、別に歌会での評価がそんなに良かったわけではなかったことは覚えている。作者はその時歌会に新入生として参加していた。「高校生の時に作った作品で一番評価が分かれた問題作を持ってきました!」と作者が悪戯っぽく笑いながら言っていたことは覚えている。その後、彼女は京大短歌に在籍していたが、年が暮れる頃に休会したいという旨の丁重なメールを送って去っていった。

話が脇道に逸れていったが、歌に少し触れたいと思う。
「問十二」、「微分せよ」とあるが、基本的にこんな数学の問題はない。こんな問題をテストで見たくない、頭抱えてしまうのがオチだ。だから、この歌が数学の問題の様に見えるのはあくまでも形式上のことであるというのがわかる。
さて、数式を微分するならわかるが、「夜空の青を微分する」というのはどの様な行為を指し示すのかを厳密に言うことは極めて難しい。「微分」という言葉を見るたびに難しい方程式が微分を繰り返すことによって極めてシンプルになっていくあの小気味よさを私はよく思い出す。微分を繰り返すたびに解答者は問題の答えに一歩ずつ近づいていく。
ただ、「夜空の青」というワードも結構曲者だと思う。夜空というものは基本的に黒いものであるという認識を多くの人が持っており、その認識を人々は共有したり子孫に受け継いだりする(と私は思っているが、実際はどうなのかは知らない)。しかし、夜空になっていく様をちゃんと見ている人間ならわかるかもしれないが、夜空というものは夜になった途端急に真っ暗闇なものとして存在するのではなく、夕焼けや夕焼けのあとの濃い藍色の空という過程を経て夜空へと変わる。作者はそういった夜空の具体的な成り立ちを踏まえて私たちに問いかけている。数学の問題というのは解答者が公式を保有していることを前提としているところがあるが、作者は暗に夜空がある一定の過程を経て成り立つものであるという「公式」を解答するわたしたちが共有しているかどうかを試している。

「街の明りは無視してもよい」という下の句は逆説的に「街の明り」というものの存在を引き立てさせる。夜空の青を微分するのにノイズとなる街の明り、そういった単純な構図を容易に想像させることができる。「〜せよ」「〜してもよい」という数学の問題特有の命令形がこの情報量の多い歌の理解というものを助けているというのも理由のひとつかもしれない。
最後に「問十二」の必然性だが、ここは「問十二」でなければならないと思う。韻律的に収まるということもあるし、テストの序盤に出てくるのではなくどちらかというと佳境に出てくるという設定が内在されていることや12という数字が時計の一番上にあるということなど理由付けは色々できるがそれ以上に直感的にここは「問十二」であるべきだと私は確信している。

この歌が発表されて長く時間が経ったあと、Twitterなどでこの歌を見る機会が異常に増え始めた。この歌がどのくらい反響を浴びたかについては検索エンジンにこの歌を入力すればすぐにわかると思う。基本的に好意的な評判が多かった。「定型の完璧さ」「とにかくすべてが美しい」など手放しで絶賛する人も多数居た。
中には「文系の人の発想」という評もあったが、あまりこれが数学そのものを言い表しているという感じは確かにしない。しかし、それでもこの歌は絶賛された。この歌がここまで評価された理由だが、私の私見だがこの歌は多角的に人々の共通の記憶というものにアプローチをかけるからではないだろうか。前述したが、夜空の青の記憶、「問十二」などの数学の問題を見て解いた体験、微分を繰り返したこと、街の明りと夜空の対照、共有されているいくつもの記憶に一撃で訴えかけてきている。それがこの歌のすごいところなのではないか。それが多くの人に話題にされた一番の要因だと感じる。

廣野翔一 (2013年7月18日(木))