一首評〈第139回〉

桃の毛をひからせあらふきらきらと依存心ふかくさびしき今日を
米川千嘉子 『夏空の櫂』

桃の旬は夏から初秋だという。その日光が入りこむ台所で、主体は桃を洗っている。主体は、「桃の毛」という細部に目を凝らしつつ、その細部を光らせながら洗う。たいていの場合、人は食べるために桃を洗う。しかし、「ひからせあらふ」主体の姿からは、桃を食べるために洗っているのだとは思えない。桃の毛という繊細な部分を水で光らせながら、ただ洗うという行為自体を目的としているように思えるのだ。
この歌で注目したいのは、「ひからせあらふ」という語句が「桃の毛」と「今日を」の両方に掛かっているところである。「今日を」の「を」は詠嘆の間投助詞としても解釈できるが、ここでは格助詞として解釈した。主体は、実際の行為では桃の毛を「ひからせあら」っているのだが、同時に形のない「今日」というものも「ひからせあらふ」。主体が「今日」を洗うのは依存心の深さに気づいたからだろう。人は常日頃から依存心というものに自覚的であるかというとそうではない。例えば依存している対象の不在など、なにかきっかけがあったときにふと自覚するものだと私は思う。そして、たいてい自覚したときにはすでに対象にふかく依存している。主体は依存心を自覚し、洗い流そうとする。しかし、「ひからせあらふ」とあるように、この主体からは依存心を消し去るような強い想いは伝わってこない。主体は依存心を洗い流そうとはするのだが、そうしたとしても依存心やさびしさは消えずに残ることを知っているのではないだろうか。桃の実をいくら洗っても水がきらきらと桃の毛を光らせるように。掲出歌は、「ひからせあらふきらきらと」「ふかくさびしき」というようにひらがなが多く、やわらかい印象を与える。そしてそのやわらかさは、この主体の行為のさびしさを強調させている。

坂井ユリ (2014年9月23日(火))