一首評〈第153回〉

一月のエスカレーターめくるめく泣きそうな手だと思ってしまう
大森静佳 「阿修羅」『京大短歌24号』

 異様な歌だと思う。エスカレーターを「泣きそうな手」だと認識してしまう主体の在り様が。そう認識せざるを得ない心理状況まで追い込んできた世界の何かが。
 エスカレーターを「手」だと認識したことがないからこそ、読み手の想像力を掻き立てる。「手」がステップであることは間違いなさそうだが、例えばそれは、手の平を見せていたのか、手の甲を見せていたのか。昇りのエスカレーターだったのか、降りのエスカレーターだったのか。さらに、主体はエスカレーターに対して、どの立ち位置を取っていたのか。見上げていたのか。見下ろしていたのか。
 どの想像であれ間違いではないだろうが、私は、「泣きそうな手」とは、手の甲を見せたものであり、エスカレーターは昇りのものであった、さらに主体はそれを見上げる立ち位置にいたと解釈した。もちろんエスカレーターが、ステップに乗せて人を運ぶという性質を負う以上、それは手の平である可能性の方がずっと高いのかもしれない。しかし、その可能性を考えてなお、私が手の甲だと解釈した理由は、手の平だと「泣きそうな」という修飾語とのイメージの関連が結びにくいからである。
 手の平を上にするとは、つまり手の内を見せるということであり、そこにはオープンで明るいイメージが付帯するように思われる。逆に、手の甲を上にする場合、それは「泣きそうな手」であると言えるかもしれない。幽霊やゾンビ、キョンシーなんかを思い出していただきたい。彼らが「泣きそうな」生物であるとは言わないが、少なくともそこに明るいイメージは一切見出せない。少し曲げられた指の関節からは、いまにも溢れ出しそうな、流れ出しそうな“なにか”を見出すことができるかもしれない。
 エスカレーターが昇りであり、主体はそれを見上げる立ち位置にいたと解釈した理由は、極めて個人的なもので、いつも登校時に使っている京阪電車のエスカレーターが昇りだからである。しかし、これもあながち間違えた解釈だとは言えない気がする。主体がエスカレーターを「泣きそうな手」と認識するためには、少なくともそれを観察し、注視し、自己の内部に取り込んでゆく時間が必要だったはずである。それができるのは、エスカレーターに対して見上げる位置を取っていた、すなわちステップをつぶさに観察できる立ち位置であった可能性が高い。さらに言えば、それらは「めくるめく」生まれ続ける「泣きそうな手」なのであり、主体はそれを間近に感じ得ていたような気がする。そのすべてを不自然のない形で示せるのは、エスカレーターが昇りであり、主体が乗り口の位置を占めていたときのように思われるのだが、どうだろう。
 とはいえ、すべてを厳密に、細部までこだわって想像する必要はないだろう。エスカレーターを「めくるめく泣きそうな手」と思ってしまった主体の心理状況こそが、この歌の一番のミソであり、そこに景の厳密さ、正確さを求めても仕方がない。「一月の」という修飾語がまさにそれを表している。
 「一月の」は「エスカレーター」と修飾関係にあるが、その割に何ら意味を限定していない。かろうじてそれは「一月の」ものというだけで、一首の中に「エスカレーター」がどのような「エスカレーター」であるかという基本的情報は一切ない。だから、この「エスカレーター」はイオンのものかもしれないし、三越のものかもしれない。改札口へと続くものかもしれないし、三階服飾店売り場へと続くものかもしれない。そういう背景となるもの、具体物を一切排したところの没個性的な「エスカレーター」、「エスカレーター」が「エスカレーター」としての機能だけを体現したものが、本歌で示されたところの「エスカレーター」なのである。
 この歌は読み手に、新たな世界の捉え方を教える。この歌を目にした私にも、あなたにも、「エスカレーター」が「泣きそうな手」という把握が与えられ、以後それは日常生活にまで紛れ込んでくる。
 例えばそれは、登校時にふと見上げた、改札口から地上へと続くエスカレーター。そこにはめくるめく生み出され続ける泣きそうな手があり、その一本一本に様々な階層の様々な人間が立ち竦む。泣きそうな手は、とどまることなく地上へと人間を送り出し続け、あなたがその場に立ち止まることを許さない。おいでおいで、とあなたをより現実に近い世界へ呼び寄せるのである。

穂波 (2019年8月8日(木))