一首評〈第155回〉

ひとつずつ慈しまれた花弁が飛び立つ角度に開くdaisy
星野さいくる 「daisy」 『心の花』二〇一九年十月号より

 作者は小学校の教員。教室の子どもたちにいま起こっていることを十五首の中にありありと表現し、第三回「群黎賞」を受賞した。

 学校という閉じた場でひとりの教師とたくさんの子どもたちが送る集団生活は、決して楽しくきらびやかなばかりではない。朗らかな笑顔の裏には子どもならではの残酷さや、痛々しい傷が隠れていたりもする。
 この連作「daisy」において作者は学校の不穏な現実を直視する。苦悩する作者自身の姿をつとめて歌の中から排し、子どもの発話やくだけた表現、巧みな喩えを用いて読者を歌の世界の中に引き込むのである。
 表題の歌にとりかかる前に、連作中で特に目を引く歌をいくつか挙げておきたい。子供を詠んだ歌ふたつと、保護者を詠んだ歌ひとつである。

 死に絶えたメダカの水槽洗いつつ「次は何を」と子らは燥いで
 幸せになるための誓い指切りは 噛みつくされた少年の爪
 突っ伏して「二度としない」と泣く母の耳にあの子とおんなじ黒子

 さて、表題の歌は連作を最後に締めくくる歌であり、鬱屈とした作中世界へ救いをもたらす一首である。

 ひとつずつ慈しまれた花弁が飛び立つ角度に開くdaisy

 daisy(デージー、雛菊)は春に開花する一年草。白または桃色の細長い花弁を無数に蓄え、種類によってはかぶせたお椀のようにふっくらとしたフォルムになる。ひとつひとつの花弁は繊細ながらも、めいめいに「飛び立つ角度」へぴんと伸びている。庭園のみならず道端でも目にすることの多い、象徴的なほほえましさを持つ花である(花言葉については敢えて触れない。日常生活とともにある肌感覚の短歌を論じるときには、外来の「暗黙の了解」はしばしば見当違いを起こす)。

 「ひとつずつ慈しまれた花弁」はまぎれもなく教室のこどもたちひとりひとりを喩えている。大切なのは「慈しまれ」ているということ。作中で描かれてきた学校世界は痛々しくて、子供たちを取り巻く状況は決してやさしくはないけれど、彼らを愛おしむ大人たちは確かに存在していて、教員である作中主体もそのひとりなのである。
 無論、作者自身の声や姿は一連の歌から排されていて、この思いが子どもたちに直接伝わることはない。しかし、子供たちはたくましく、それぞれの将来へ向けて「飛び立つ角度に開」いている。ここで作中主体に、ひいては読者にひとつの安堵がもたらされる。
 細かく読み込んだ上で、改めて歌全体を解釈すると以下のようになるであろう。

 ひとりずつ慈しまれて育てられた子供たちがそれぞれの未来へ顔を向けている、それが「daisy」=学校である。

 歌そのものが優しく素直なメッセージになっており、まさしく一連の作中世界に対する救いなのである。

 ところで「daisy」はどうして英語を用いたのであろうか。例えば、花のデージーではない何かしらの英語固有名詞であろうかと考えたが、それらしき人物や概念は見当たらない。外来種のデージーに特定しているという可能性も思いついたが、歌の解釈に大きな変化は発生しないであろうし、そもそも日本にデージーの固有種は存在しないようである。
 歌にもたらす意味という観点からは特殊な表記の意図を解釈しづらいので、ここでは表面的な字面がもたらす効果という視点に立ってみたい。
 この「daisy」という語は連作十五首の締めくくりであり、作品のタイトルにもなっている。「デージー」あるいは「雛菊」というタイトルに比べて、「daisy」はおしゃれさと第一印象の鮮烈さで優っているであろう。そしていざ連作を読んでみるとどれも巧みな歌ばかりで、決して名前負けしていない。
 特異な表記や語法は良くも悪くも読者の目を引く。事物・感情・風景を思いのままに叙すという詩の本質からはズレてしまうかもしれないが、テクニカルに読み手を誘導するというのもたいへん面白い短歌との触れ合いかたであろう。

帖佐光浩 (2020年4月21日(火))