一首評〈第158回〉

本当に大事なものはいつだって名前 それが二つある犬
佐クマサトシ 「すべての可塑的な者たちに告ぐ」

2011年・2012年にロサンゼルスで行われた初音ミクのLive「MIKUNOPOLIS in Los ANGELES」、そこで発表された「初音ミクの消失」はまさしく圧巻であった(Spotifyで聴くことができるので、よければ聴いてほしい)。この曲の特徴は、なんといってもサビの高速で歌われるパートである。初音ミクは合成音声であるため、作曲においては「いかに聞きとりやすくつくりこむか」が考慮される媒体である。しかし、「初音ミクの消失」においては歌詞を読みながらでないと、あるいは読んでいても不可能かもしれないほどの速度で歌が展開される。聴かれるための媒体であり客体であるボーカロイドが聞き取り不能な速度で歌い続けるという矛盾。そしてこの曲は「深刻なエラーが発生しました」という初音ミクからの警告とともに、聴き手にはそれが強制的だと感じられるような、終了を迎える。主体的ではあり得ない初音ミクが「歌い手」という立場をジャックして歌を終わらせる。とはいえ、それすらもプロデューサーの意図の範疇を抜け出すことはない。しかしながら、初音ミクの「深刻なエラーが発生しました」という自己申告は、一瞬こちら側のジャッジを狂わせる。それは意図的に、発生するように仕組まれたエラーであるにもかかわらず、その申告を聴くとき、その一瞬は初音ミクが能動的な存在になっているように思えてならない。この事態、一瞬の錯覚が「深刻なエラー」であり、「深刻なエラー」こそが初音ミクの本質である。普段は潜在化している本質が、「深刻なエラーが発生しました」という自己申告(=バグ)によって顕在化する。

現代短歌を縦軸と横軸からなるグラフを用いることで理解しようと試みる、というアプローチの仕方があるとして、よくある横軸の(あるいは縦軸の)設定のひとつに「分かりやすさ」があるだろう。そして、分かりやすさの極限に枡野浩一や木下龍也が、難解さの極限に瀬戸夏子が置かれるだろう。前者はあるあるや言葉あそび、平易に読み下せる(ように研ぎ澄まされたレトリックを用いた)韻律などを駆使して、後者は短歌から発せられている引力から逃れるための定型の破壊や詩的飛躍を操縦して、各々のアネクメーネの拡大に挑んできた(ように私には見えている)。

そのような挑戦がしばらく続くと否応なく考えなければならない疑問が立ち現れてくる。
それは、「分かる、それが何だというのか」「飛躍がある、それが何だというのか」という自問自答である。レトリックを研ぎ澄まし、ユーモアを凝らし、誰もが分かり安心して楽しめる短歌ができた、として、それが何だというのか。定型が破壊された、予想を裏切る飛躍ができた、それに快楽が感じられる、として、それが何だというのか。安心や快楽があるならそれでいいではないか、と言うのなら、短歌でなくてもいいではないか。私たちは短歌をするために短歌をしているのではなかったか。先ほど例として挙げた歌人たちがどう考えて短歌をつくっていたかを知る術はないが、どのように短歌をつくるにせよ、「短歌をするためにどのように短歌をつくるのか」がつねに問題としてつきまとうということがここでは重要である(列挙した歌人たちを、そのわかりやすさの程度で批判したり賞賛したりしたいわけではない、ということを念のため補足しておく)。

本当に大事なものはいつだって名前 それが二つある犬
/佐クマサトシ「すべての可塑的な者たちに告ぐ」

佐クマサトシから告げられている対象であるところの「可塑的な者」とは、いったい誰なのか。「可塑的な」は、力を加えると変形し、かつその形が維持される性質を指す形容詞である。者といっているのでひとまず人に対して告げているとして、可塑的な人とはどのような人か。人は、物理的にも変形はするが、ここでの変形はより精神的な変形であるだろう。他者によって力を受けることで、精神的に変化する。それだけでなく、人は自身に対して力を加え、変化させることもある。しかし、それは自分を変化させることに対して能動的でなければ不可能である。では、そのようにして変化する人の、それでも地球上にはたった一人しかいない「その人」を成立させているのは何だろうか。それが「名前」である。親に与えられる名前とその人が経験する事象の積み重ねが、変化するが不変の「その人」を構成する。だからこそ、「名前」は「本当に大事なもの」なのである。しかし、犬は犬だから(人ではないから)名前がふたつあることもあり得る。たとえば「ポチ」として飼われている犬が、散歩中にすれ違った子どもに「たろう」と呼ばれても、飼い主にとっては違うと認識されるが、犬にとっては本質的には何の矛盾もないだろう。ここで犬が自分の名前を認識しているかどうかは問題ではない。それは単に表音的な「名前」であって、この短歌に出てくる意味での「名前」ではないのだから。
このようにして、この一首には「名前」というものの両義性が立ち上がってくる。人間が可塑的である限りにおいては「本当に大事なもの」であり、犬にとっては「二つある」こともあり得る「名前」。「すべての可塑的な者=名前を持つ者」に対して告げられる短歌。そしてそれは、わかりやすいから安心できる、飛躍があるから快感を得られる、そのために作られる短歌とは異なる。短歌をするために短歌をつくること。可塑的な(能動的な)者は読めばいいというタイトル(=態度表明)は、だから傲慢ではない。掲出歌は、一首のなかに両義性が立ち上がることで、それを立ち上げている短歌という構造そのものの手ざわりがあるし、そのような短歌を作り続けている佐クマサトシという歌人を私は敬愛している。

奥村鼓太郎 (2022年10月11日(火))