一首評〈第24回〉
半そでのシャツの上からコート着て透き通る冬の歩道をあるく
12月です。ので外はとっても寒い。
けれど最近はどこへ行っても室内は十分に暖められていることが多いので、
「半袖にコート」というひとつのスタイルが成立しつつあります。
現代のいち側面と言えるかもしれません。
ですが、その発見(あるいは、そのちょっとこそばゆい身体感覚)が、
この歌の主眼でしょうか?
下の句、コートを着ているのだから外を「歩いて」いるはずで、
それなら「歩道を」とわざわざ断る必要はありません。
「冬」というのも自明です。
また「冬の歩道」が「透き通ってる」という把握も、
詩としてオリジナリティある表現とはいえないと、僕は思います。
つまり、下の句で加えられる意味内容は、ほぼゼロです。
ですが、表面的な意味をゼロに近づけるからこそ、
意味以外のものが立ち上がる。
この歌でいうと、たとえば「冬の歩道」というh音から、
吐き出される白い息や、
ひじのあたりのコートの感触、
そこに溜まったあたたかさなどを感じることができます。
意味を詰め込まずに、器のように言葉をデザインすることで、
短歌形式は(主に音による?)別のものを容れることができる。
「冬の歩道をあるく」というフレーズは一読すぐに器と化して、
透き通る冬の午後の広がりを読者の前に提示します。
これも何もいまさら言うまでもなさげな指摘かもしれません。
が、短歌(らしきもの)を詠むようになって約9ヶ月、
ようやく以上のようなことを実感しながら鑑賞できるように、
なりつつある気がしてちょっと楽しいのです。
短歌は奥が深い!!!
(引用は「第三回歌葉新人賞」より)