一首評〈第52回〉

大みそかの渋谷のデニーズの席でずっとさわっている1万円
永井祐 連作「1万円」より

短歌ヴァーサス第9号より。初出は東京の「第5回ガルマン歌会」(2005年5月)。このときは、表記が「1万円」ではなく「一万円」であった。雑誌掲載時には縦書が前提なのにもかかわらず、算用数字に推敲されているのには驚くが、このこだわりが示すように、お金は、作者特有のモチーフのひとつである。

 五円玉 夜中のゲームセンターで春はとっても遠いとおもう
 何してもムダな気がして机には五千円札とバナナの皮

これらの歌では、「お金」と「価値」の差異が探られているようだ。

「美は信用である」と述べたのは小林秀雄(『眞贋』)。これを福田和也氏は以下のように解釈している。「『美』に拘わる金本位制が崩壊してしまったのだ。『美』は、『ホン物』や伝統的評価に支えられた、堅固な実体ではなく、その場限りの信用秩序によって維持されるペーパー・マネーに成り代わったのである。」(『日本人の目玉』)

身も蓋もない、ペーパー・マネーの一万円というむきだしの「価値」。しかしそれも、真の価値のメジャー・スプーンたりえることはない。作者は知っているだろう。「ずっとさわっている」とは、その不安の手触りである。

ガルマン歌会では、この「1万円」が高価すぎるのではないか、うごくのではないか、という議論がしばしなされた。千円札ではどうか。500円玉ではだめなのか。「うごく」「うごかない」とはなんだろう。それは僕が思うに、一首の背後にたたずむ、作者の不動の美意識を感じられるか、ということではないか。

「うごく」とは、その美意識に値上げを迫るような評価の仕方かもしれない。もちろん、短歌における「価値」が、定量化できるものである、という保証は、どこにもない。

下里友浩 (2006年7月4日(火))