一首評〈第53回〉

君はひとりでお昼ごはんをたべている あんなところに階段がある
下里友浩 『京大短歌』15号

 作者は京大生の方ですから、舞台は学生食堂でしょうか。

 普通に考えると、「君」という人物を観察している主人公が、階段を発見して驚く歌ということになりますが、これはどういうことなのでしょうか。

 この歌は恐らく、上の句と下の句のつながりを想像させる歌だと思いますので、うまく二つの句をつなげられるような鎹(かすがい)のようなものを探してみようと思います(例のことわざで名前は有名だと思いますが、どういうものか知ってますかー?)

 


 仮説A:純粋に階段を発見したことによって驚きを感じ、「君」のことが頭から離れてしまったのでしょうか?

 確かに、主人公が極度の階段マニアだったり、あるいは発見した階段がシュルレアリスムの絵を具現化したようなものすごいものだったりしたら、それはありうるかも知れませんが、わざわざおランチタイムを観察するほどの相手です。通常の場合、階段ごときに負けたりするでしょうか。



 仮説B:もしかして、階段は「君」が特殊な能力によって主人公に見せている幻覚なのかも知れません。

 実は主人公は「君」の素行を怪しく思っており、「君」は主人公を邪魔者に感じているというストーリィも考えられます。でも階段の幻覚を見せてどうするのでしょう。主人公にその階段をのぼらせるのでしょうか。確かにそれなら幻覚の階段はまずのぼれないでしょうから、主人公はコケます。しかも何もないところでコケることになるので、周りからおかしい人だと思われます。階段があったなどとほざこうものならなおさらです。従って、肉体的ダメージと精神的ダメージを同時に与えられます。ですがこれは、同時に主人公の「君」への疑いを強めてしまうことになりかねません。皆さんは、こんなおバカなことしませんよね。



 仮説C:もっと普通に考えてみましょう。私的に一番自然なのは、「あんなところに階段がある」というのが一種の「言い訳」というか「ごかまし」というか、何というかそういうことだということです。

 どういうことかといえば、つまり、「階段がある」ということで、「いやいやいや、べっ、別に「君」のことを見てるわけじゃないんだよ。本当はちがうんだ」と伝えようとしているわけだということです。で、誰に向かって伝えようとしているのかというと、それは「君」、第三者(「君」あるいは主人公の関係者で付近にいる)、主人公自身、の三通りのケースが考えられます(歌を読む人とか、神様というのもありかも知れませんね)。どういう感情によってその伝えようとしたかについても色々想像できますね。これは一つに限定してしまわない方が楽しいと思います。



 とりあえず仮説Cが妥当かと思うのですが、もしかしたら、もっと深遠にして壮大で、器用大胆かつ不敵な解釈があるのかも知れません。

 たとえば、「君」は実は「黄身」で、この歌は、卵の黄身がお昼ごはんを食べているのを目撃してしまった驚きを歌にしたものだとか。なぜ「黄身」を「君」にしたかというと、それは卵の黄身がご飯を食べることが世間に知れると都合の悪い組織がいて、そこからの圧力がかかって仕方なく。でも同じ光景を目撃した人がどこかにいたら、その人には共感を得られるだろうと思って。

 




   君はひとりで意味フメイ子をやっている あんなところに病院がある
 

吉岡太朗 (2006年8月1日(火))