一首評〈第67回〉

ひだりうでに鎖をなして連なれる歯形を熱き陽にさらしをり
光森裕樹 「風のうはずみ」

自傷の歌ととりたい。一首は初句から結句まで区切れをもたず、まるで「鎖」のように重たくつながっている。

 サクサクとポッキーを食べながらみる映画の中の信号無視  永井祐

 缶コーヒーと文庫をもって立っている足元に吹いてくる夏の風  同上

 うるほへる瞳のごとき珈琲で事足る日日をただひとりゐる  光森裕樹

「風のうはずみ」一連は、「セクシャル・イーティング」という奇妙な企画のなかの一編として発表されている。石川美南、今橋愛、永井祐、光森裕樹という若い4人の歌人が、月10首の短歌を、同月の「食事の記録」とともに発表する、というものだ。

なぜ「食事の記録」なのか。その企画意図はあきらかにされていない。永井祐と光森裕樹の歌には、「ポッキー」「珈琲」といった飲食物が詠みこまれており、同作者の「食事の記録」を探すことで、読者は作中の主人公と作者のあいだに何らかの「つながり」を見出すことができるが、他のふたりはそうではない。

おそらく4人共通の意図というようなものはなく、「作品」と「食事の記録」との関連は、それぞれの作者の解釈や距離感覚にゆだねられているのだろう。読者はそれを自由に読みとればいい。

さて、この「セクシャル・イーティング」という場のなかで、僕がいちばん注目したのが、掲出歌である。この「歯形」のリアリティはどうだ。1日と途切れることなく記される詳細な「食事の記録」は、プライヴェートな「私」を注意ぶかく仮構し、その「私」の口を借りて歌わせるこころみのようにも思われてくる。

日々ものを食い、歌をアウトプットする4つの「口」のイメージ。そのなかの「口」のひとつが、あるとき衝動的に、私を喰らう。

下里友浩 (2007年9月1日(土))