一首評〈第70回〉

かたちなき憧れゆえに漂着の重油に浮かぶ虹を見ている
野樹かずみ 『路程記』

 作中に虹は、漠然たる希求、かたちなき憧れの象徴としてある。しかし、主体が見ているのは美しいアーチを描く空の虹……ではない。

 漂着した重油が光の反射によって映し出す、地上の虹。触れる手を汚し、水鳥たちから羽を奪い取る。

 希求の象徴が、空の虹ではなく、地上の虹を見ることとしてあること。それは野樹の主体にとって宿命的なことなのかも知れない。


  ほんとうの地平をみたい 真夜中の冷たい硝子に口紅をひく 「硝子」(※1)


  無分別な心だろうか口づけをするとき永遠をねだっている 「硝子」


  月みれば月にむかって伸ばさずにいられなくなるこの手が悪い 「宇宙の空き地」


 一首目、上の句の強烈な希求に対する下の句の代替行為。その背後には強い抑圧を感じないだろうか。

 二首目は、抑圧が自己に内在している。無分別、とネガティヴに捉えられた永遠への希求。この歌の場合、まだ「だろうか」と推定的ではあるが、三首目では断言的に否定されている。

 このように野樹の詠む希求の歌には常に、希求の抑圧が併在している。

 希求と抑圧。主体の見る対象が、空の虹ではなく地上の虹であることもまた、この抑圧の結果によるものなのだろう。

 では主体を抑圧しているものは何か。大雑把に言ってしまえば、主体をとりまく現実そのもの、であろう。


  かごめかごめ鬼の子いつまでうずくまる後ろの正面風ばかりなり 「終わりまた始まり」


  鞄には教科書、鉛筆、鉛筆のためらい傷で汚れたノート 「硝子」


  水は硝子の器あふれそうで(では叫びたいか では泣きたいか) 「硝子」


  奪われてしまうものならはじめからいらないたとえば祖国朝鮮 「終わりまた始まり」

 
  生涯の終わりに母が食べのこすマスクメロンの緑の半球 「夢の羊水」


 野樹の描く世界は痛みに満ちている。

 希求の抑圧は主体にとって、その痛み多き世を生きてゆくための生存戦略の一つなのではないか(※2)。


 ※1:引用はすべて歌集『路程記』から。

 ※2:ちなみに歌集の末尾にある連作「埴輪」では、主体はその抑圧から解き放たれているように読める。

吉岡太朗 (2008年2月1日(金))