一首評〈第111回〉

忘れ得ぬ心みたりし春のこと千の椿の葉の照り返し
馬場あき子 『桜花伝承』

 心を見たのだという。かつての春、確かに目撃したある忘れられない心が今、あたかも無限に反芻されている。眼前にあるたくさんの椿の葉が日差しを反射する、そのまばゆさに似た数え切れない再生だ。

 ではその記憶の光を最初に放っていたのは、実際どんな他者の姿だったのだろう。歌のテキストからは具体的な場面の一切が明かされない。その誰かは「心」を、作中主体へ面と向かって差し出したのではないのかもしれない。動かしがたくあるのはただ、見ていた側の確信だけである。
 提出歌は「春の水深」と題された連作の中の一首。季節が繰り返し巡り来る、円環としての時間を身にしみて感じるのは、やはり春だ。春は人との別離や出会いの季節であり、草木や生きものたち再生の季節であり、あらゆる営みの一つ一つが目に留まる。中でもひときわ目を離させなかった、誰かの姿。そこに心を認めてしまう視線の、危ういまでの強さを思わずにはいられない。

 下の句に目をやると、奥行きのありそうな濃い緑の葉と、きらめく光の同居が美しい。「椿の千の葉」ではなく「千の椿の葉」という語順で書かれることにより、記憶の光はいっそう増幅される。四句目で読み手の目に写るのは椿の花の無数の赤だ。結句に至ったとき、その隙間のすべてに、光沢を湛えた葉の緑が満ちる。また、「葉の」の助詞「の」を主格、結語「照り返し」を動詞の連用形と取ることもできるだろう。弾力のあることばが、反射の各々に確かな生理を与えている。

 そうして何度でも光は、あの「忘れえぬ心」へと帰ってゆくのだ。

 季節のさなかにあって、束の間を凝視するに任せるしかなかった作者の眼差しと、時を経て幾度も再現される輝きに、じっと思いを巡らせてみる。

笠木拓 (2012年2月9日(木))