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歌会のお知らせ

☆7月の歌会日程をお知らせします。
場所は基本的に西部課外活動棟を予定しております。

 7月29日(日)13:00〜(定例歌会)

*試験期間ということもあり、7月の開催は1回となります。

 毎月最終週日曜には定例歌会が開催されます。参加されたい方は下記の「お問い合わせ」まで、ご一報ください。返信までは2〜3日を要する場合がありますので、早めのご連絡をよろしくお願いいたします。
*連作歌会とは有志が連作を持ちより、それぞれの連作ごとに批評を行う形式をとります。通常の歌会と形式が異なることにご注意ください。


「歌会の記録」より過去の歌会に提出された歌がご覧いただけます。

☆現在京大短歌では新会員を募集しています。
大学生・大学院生・短大生・専門学校生であれば大学・学年・年齢・経験問わずどなたでも入会できます。現役会員に声をかけてください。

興味をもたれましたら本ページ下部の「お問い合わせ」よりご連絡ください。
歌会の場所、形式などの質問も気軽にどうぞ。

歌会への参加も可です。見学も可能です。

会員誌『京大短歌』23号

京大短歌 23号

『京大短歌』23号が完成しました。 現役会員10名+OB・OGなど16名の作品を掲載。「三〇周年記念歌会録」、京大短歌についての評論などを収めた151ページの一冊です。 三月書房さま(京都)・葉ね文庫さま(大阪)でお求めいただけます。 通販をご希望の方は「お問い合わせ」ページに記されたメールアドレス、あるいはフォームにてご一報ください。

お問い合わせ

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一首評〈第123回〉

きみが死ねばぼくは悲しいから雪の原野に海老の天ぷらを置く
石井僚一 「海老の天ぷらを置く」『死ぬほど好きだから死なねーよ』

 集題で「死なねーよ」と言っておきながら、身近な他人の訃報や死のモチーフがあちこちで扱われるのが、本歌集の特徴である。前掲歌はネットプリント掲載歌の一つでもある。
 初句から「きみ」の死が想定され、それに対し「ぼく」は「雪の原野に海老の天ぷらを置く」。一見句切れがなく、はじめからおわりまで流れるように読まれる歌だが、きちんと数えると初句六音の、定型をある程度遵守した歌であることがわかる(きみがしねば/ぼくはかなしい/からゆきの/げんやにえびの/てんぷらをおく/、前から六・七・五・七・七)。 しかし本歌において定型は短歌らしさ以上の効果をもたず、むしろ「きみ」の死という仮定をふりきるように、歌の中で息をつく間もなく畳みかけられる。
 そうした切迫感の中で「ぼく」は、どういうわけか「雪の原野に海老の天ぷらを置く」。だだっ広い雪原に一尾の天ぷらを置く様子は、クスッと笑えるシュールさすら感じさせる。海老の天ぷらは雪の原野に置かれる頃には(というか雪の原野に向かう道中で)冷めてしまっているだろうし、なんならその行為を見る人もまわりにはいないだろう。「きみ」と「ぼく」以外の人間が想定されないこの歌の中では、そうしたわけのわからない行為は非現実感をもたらす。その非現実感もまた、「悲しいから」という不可解な接続語によって理由を与えられ、一首を通して共感できなさのようなものを生んでいる。
 意図的なリアリティの排除は、しかし、逆説的に「悲しいから」という理由によって居場所を与えられている。そう、「ぼく」は、ただ「悲しいから」、「雪の原野に海老の天ぷらを置く」のだ。それは「きみ」の死という想定されたリアリティを無化しようとする必死の行為にもみえる。ただ「悲しいから」という理由で、この歌は成立することができる。その意味では、先の「共感できなさ」のようなものは、歌にとっての成果であるだろう。「きみ」の死は、そのリアリティを徹底的に排除することが目的であるために、決して読者に共感されてはならないのだ。きっと「ぼく」すらも、その非現実には属しきることができない、本当に「きみ」の死に立ち会ったときに、「ぼく」は「雪の原野に海老の天ぷらを置」きにいくことなどできない。ここで提示されているのは、そうした「共感できなさ」や「非現実感」に裏打ちされる、徹底された悲しみなのだ。こうした感情の加速機械としての短歌の作り方は、石井僚一のすごみだと思う。

金山仁美 (2018年6月28日(木))

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