一首評〈第157回〉

青春はみづきの下をかよふ風あるいは遠い線路のかがやき
高野公彦 「水木」

高校時代、仲間と青春の定義について語ったことがある。そういう青臭い議論の常として、どういう結論に達したのかは思い出せず、盛り上がったという記憶だけが今でも残っている。もし当時この歌を知っていたならば即座に引用したのだが。

 ミズキは五月ごろに咲くようだ。初夏、ぐんぐん上がる気温や強まる日差しは、成長していく若者に似合う。いきいきと緑の葉を広げた高木に、小さな白い花がたくさん咲いているのを思い浮かべる。この時期の風は、冬の寒風とも夏の熱風とも違って、爽やかな風ではないだろうか。色も形もない「風」が「みづきの下をかよふ」という修飾を受けて具体的になり、読者も一瞬この風に吹かれる。

 青春はみづきの下をかよふ風、と言い切るかと思いきや「あるいは」と次のモチーフに移る。

 遠い線路のかがやき。この言葉を見た途端、目の前から遠くまで線路が伸びてゆき、日光を白く反射させた。この線路は将来の比喩として捉えることもできよう。徒歩よりも自転車よりも速くて力強い鉄道は、しかし好きな方向に進めるわけではなく、レールの上をひた走るしかない。それでも行き先は眩しく見える。若者の情熱と同じくらい線路は熱くなっているはずだ。

 風もかがやきも、とどめておくことができない。風はすぐに過ぎ去るし、かがやきは日が翳ると消えてしまう。作者にとって「青春」は過去なのかもしれない。

 この歌は、青春とは?という問いに上の句で「みづきの下をかよふ風」と答えてから、下の句で「遠い線路のかがやき」という別解を示すような構造になっている。複数のモチーフを挙げているので押しつけがましさがなく、さらなる別解の想像も促す。

 さて、私は多忙を言い訳に「みづきの下をかよふ風」にも「遠い線路のかがやき」にも気づかないような日々を送っている。少しだけ立ち止まる時間を作れば、どこかでまた青春に出会えるだろうか。

今紺しだ (2022年3月22日(火))