歌会の記録:2000年5月24日(水)

歌会コメント

歌会 参加者数15名
奈良女子大学から金田光世さん初参加。

詠草

01 スカートの風のそよぎも考慮して完璧二足歩行をしたい  杉美和

02 洗濯のできゆくまでを待つ昼のテレビの笑いは絶えずにいたり  西之原一貴

03 傘ごとに孤立していく群衆の別々のときをつないでる雨  松島綾子

04 みんなしてそっぽを向くから教室で笑った私の目は同じ色  井上リリー

05 とおき目の青年は夏の日の下に自転車の群正していたり  田中克尚

06 ジッパーを上まであげたジャケットに口を隠して少女はわらう  金田光世

07 春泥の凍つるを踏めり足うらで愛撫しているような昭和史  島田幸典

08 返すのはいつでもいいよ白い陽に渡されていた古本だった  吉川弘志

09 鶏卵を置きて立ち去るテーブルにひらたく昼の日は溜まりたり  澤村斉美

10 つつみ込むまあるい風が残していった香りに浮かんだのは照れ笑い  大嶋元気

11 胆汁に異化さるるまでこのごろは思考とがりてかたはらにあり  田中あろう

12 西日浴びて桜の翳が落ちてくる 二十歳のひかりはあなたにあげた  水野ふみ

13 王座には政治が合ふ、と言ひがたく向きあひてゐて言ひそびれたり  黒瀬珂瀾


[ひとこと評]

01 「完璧二足歩行」から想像されるのは、胸をはった、美しい歩き方。颯爽としている。大またで堂々と歩く。夏に向かってゆくこの季節にふさわしく、気持ちがよい。男の人でスカートをはいたことのある人は少ないようだ。スカートに風の心地よさを知らぬとは、ちょっとばかり5月の風を損しているのではないかと思う。「考慮して」が一首の中で浮く、との評も。

02 昼のテレビの笑いが絶えない(確かに、12時から13時30分までは、笑いの波にいいように漂わされて、テレビの前を離れられない)というのは、うつろである。それと、洗濯機が回る一方ですることのない自分。こういった昼の倦怠感は誰もが経験したことがあるだろう。「洗たくができゆく」という言い方には、違和感があり、とも。

03 作者の視点を考えてみよう。人の群れがばらばらになってゆく中に作者はいるのか、それとも、そんな群集を作者はどこかから見ているのか。私は、人が「傘ごとに孤立していく」さまを階段かどこかから見下ろしているような印象を受けた。「別々の」と言っては、「孤立」と重複してしまうが、ばらばらになる人間をつないでいるものという社会学的な発想を指摘する評もあった。

04 この作者は、いつも肩にかついだ乱射銃をぶっ放してフフフフフと笑っている。つまり、言葉を、思い浮かぶままに紙に打ち込んで「ほい、できた」なのである。そのため、つながりがよくわからないことがある。この歌の場合も、例えば目の色が何と同じなのか、わからなかったり。だが、人がそっぽ向くからこそ笑うと言う作者にとって、この乱射銃式は必要条件なのかもしれない。勢いはそこから生まれている。

05 自転車の群れを、並べるでもなく、整理するでもなく、「正していたり」。青年の姿勢が目にうかぶ。夏の日の下に置かれた自転車のまぶしさや、通り過ぎる人々、そういったものまでが見えてくるところにこの歌のうまさがあるように思う。またそういうところを見ている作者の目に、人柄が感じられる。「とおき目」という言い方が、少々気になるとの評もあり。

06 一読、少女のとらえかたがうまいと感じる。上目づかいの少女、息のこもった笑いをする少女。同時に、作者との距離感も感じさせる。写真あるいはイラストの構図そのままのような印象もある。作者によれば、これは、被災地で大きめのジャケットをはおった少女を写した写真(ポスター?)を見て作った歌であるとのこと。となると、歌の読みも変わってくる。

07 昭和史というと、日本の戦前戦中を考えることになる。作者の立場が伝わりにくい、また、結局最後には昭和史に対して何も言っていないじゃないか、との評が出されたが、何もいえない、あいまいである、というところに、戦争を経験していない世代の、昭和史に対する戸惑いがよく表われているのではないか。その点に関して、共感できる。昭和に生まれながらも、昭和の主役ではない私たちの世代が、歌として、昭和史を、さらに言えば戦争をどう扱えばよいのか、考えさせられるところである。

08 このノスタルジィがなんともいえない。「返すのはいつでもいいよ」には、かぎ括弧もついていないのだが、相手が言ったこととして、難なくさらりと受けとめられるところにうまさがある。また、「白い陽」、「古本」という取り合わせもいい。「だった」にみられる微妙な屈折が、ノスタルジィの効果をさらに高めている。たいへん好評な歌であった。

09 「鶏卵」という言葉を使うなど、全体としてまとまりすぎている、との評あり。卵を置いて立ち去るのは、演技に過ぎるのでは、とも。深読みをすれば、いくらでも解釈がでてきそうなのだが、これは、とても静かな静物画として読んでおくと良いだろう。実はこれ、私の歌であった。梶井基次郎の「檸檬」が心にあった。気持ちはいつも、爆発を望んでいる。

10 この作者は、以前にも残り香の歌を出したことがあった。残り香の好きな人なのだな  と思う。残り香からはいつも相聞の、しかも香りの持ち主は女の人であるような読みが浮かんでくる。相手に残され、照れ笑いをしている自分(ととってよいのだろうか)  の、くすぐったさが感じられる。歌会後に、このような風の歌を歌ってみたかったと言う参加者もいた。

11 「かたはら」を傍らではなく「片腹」ととらえると読みやすいだろう。思考が異化されるというのがどういうことか分からないという評もあったが、思考を消化にたとえるのみならず、「胆汁」をつかって具体的に表したところがいいと思う。体液や臓腑の歌を作りたいのだが、それらを使うとどうしてもどろどろしてしまう。その点、この歌のさらりとした使い方は、やはりうまい。

12 上の句では、西日、翳、落ちる、など、ネガティヴなつながりできている。下の句を、甘い喪失感とすると、上の句は喪失感の喩としてきいていないとの評も。しかしそれは、下の句が喪失感ばかりを言っているのではないからではないか。むしろ、「もってけ泥棒っ!」のような潔さを感じる。その思いは、西日がまっすぐに桜を貫いて翳を落とすことからもわかるように思う。

13 もしかしてこれ、天皇のことを言っているのではないか、との評もあり。王座につくものには政治が似合うと誰もが思っているのだけれど、大きな声では言えない、という。一方、王座をもっと日常的なところでとらえたほうがおもしろいのではないか、という意見も出た。「言ひがたく向きあひてゐて言ひそびれたり」という言い方に、もどかしいような、しっくりこないような気持ちが表われている。
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